日本人にとって「国語」が最も重要な教科である理由

こんにちは、コタローです。

学校教育における教科で何が重要かと聞かれた時、あなたなら何を考えますでしょうか。

「その土地に住んでいるのだからその国の成り立ちを学ぶべく『歴史』こそ重要だ!」

「いやいや、人として生きていく上で大切な心を養う『道徳』こそ教育の根幹だ!」

こんなことが思いつくかもしれません。たしかに重要ではありますが、実は最も根幹となり私たちが身に付けなくてはいけない教科、それは「国語」なのです。今回はこの「国語」の重要性について取り上げていきます。

■ 国語の重要性とは

なぜ「国語」が重要なのかといいますと、私たちは日本語という「言語」を利用して相手の考えている事や自分自身の存在、はたまた世界で起きている事象を理解します。

つまり、この「国語」というものをないがしろにしてしまうと、自分はどう考えているかが整理できず、それによって相手に何を伝えたらよいかも定まらず、結局は言語を利用する最大の目的である「意思疎通」に支障をきたしてしまうのです。

当然、人間は社会的な生き物であり、一人では生きていけない以上、一生コミュニケーションを取り続けていく事となるため、最も重要な教科は「国語」になるのです。

また、私たちにとっては、この「国語」こそが母国語であるため、日本の文化、伝統、歴史、思想等を理解するには、日本語という「言語」を理解しない事には、それらを理解するのは難しいといわざるをえません。

例えば、「百人一首」(小倉百人一首)という歌集があります。現在では漫画「ちはやふる」の影響もあり「かるた」としてもブームになっておりますが、この歌集の最初の詩は以下の様なものとなります。

「秋の田の  仮庵の庵(いほ)の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

その昔に農作業に従事する農民は、仮の小屋で動物に畑を荒らされないように見張りをするのですが、そんな時に屋根が粗く隙間が空いていて雨がしたたってきて、自分の袖が濡れているという情景を、この歌は描いています。

そして、この情景を思い浮かべた時、農作業の「辛さ」、夜の「静寂さ」、秋の夜の「風情」など日本語を理解できると様々な情景を描くことが出来ます。

私たち日本人は、こうした歌の情景を「短歌」や「俳句」などの歌として理解することが出来ますが、こういった歌の醸し出す「趣」は外国人が理解する事は非常に難しいとされています。

これを翻訳すれば、伝えられるかもしれませんが、そこに風情や芸術的な意味合いを見出すことは至難といえるでしょう。

この様に、生活におけるコミュニケーションから芸術的な価値、そして各教科まですべては日本語を基本に作られている訳なので、そこを把握するためには共通基盤である「日本語」=「国語」を最も重要視する必要があるのです。

■ 国語の優位性とは

戦前(大東亜戦争前)の教育では、尋常小学校における満六歳から十二歳までの六年間が義務教育とされていました。そして、この中で最も多く割かれていたのが「国語」の時間であり、その割合は全体の授業の約半分を「国語」が占めていたといわれるほどです。

この事からもわかる通り、「歴史」にしても「算術」にしても「理科」にしても、全てにいて基本とされていた「国語」が如何に重要であったかがうかがえます。

また、これほど重要視されていた国語ですが、しばしば「曖昧で情緒的だ」といわれることがあります。これは要するに論理的ではないといいたいのですが、それはあくまで一側面からの見方でしかありません。

これは英語や支那語(中国語)などの「○○は××である」という論理を重視した言語からみればそのような見方になりますが、だからといって日本語が劣っているという事にはなりません。

先にも紹介した様に、日本語は情緒豊かな言葉のため、論理性だけでは表すことの出来ない人の心情や自然の描写などを表現する事にたけているのです。

洋楽でいい曲だなと思い和訳を見ると、非常に薄っぺらい歌詞だったなんて経験はございませんか。私は高校生の時に洋楽しか聞いていなかったため、改めて邦楽を聞くとその差を如実に感じたことがあります。

この様に、論理性が高いと最低限の意味自体は、普遍性を持って伝えられるかもしれません。しかし、「感性」や「情緒」といった言語では表しずらいものについては逆に表現する事が出来にくいという側面があるため、私たちはまずこの「国語」をしっかりと身に付け、日本的思考を育む素養を手に入れることが、教育において必要とされている事ではないでしょうか。

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